2009年04月27日

のその他の国の機甲師団

その他にもフランス、自由フランス、カナダ、イタリア、ハンガリー、ルーマニア、フィンランド、ブルガリア、自由ポーランドが機甲師団を保有した。

戦車の高性能化が進み、随伴する歩兵や砲兵も進化を遂げた。歩兵部隊は、トラックから装甲兵員輸送車に搭乗するようになり、さらには重武装の歩兵戦闘車が登場している。また、大砲についても、牽引式の大砲は減少し、自走砲化され軽度の装甲をも持つようになった。対戦車砲は対戦車ミサイルに取って代わられるなど、各兵器の武装のミサイル化が進んだ。

イスラエル
イスラエル軍も機甲師団を上手く運用し、何次もの中東戦争において、アラブ側の機甲師団を撃破している。

アメリカ
現代のアメリカ陸軍においては、歩兵師団の名称がついていても戦車の保有量が多いため、実質は機械化歩兵師団となっている(湾岸戦争時におけるアメリカ機甲師団は6個戦車大隊・4個機械化歩兵大隊で構成、機械化歩兵師団は5個戦車大隊・5個機械化歩兵大隊で構成され、差異は少ない)。湾岸戦争において、機甲師団同士の戦闘があり、アメリカ軍の機甲師団はイラクの機甲師団を壊滅させた。

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イラク
1980年代のイラク軍の機甲師団はT-72戦車を中心に編成。イラン・イラク戦争(デズフールの戦いなど)を戦い抜いたほか、湾岸戦争に先立つクウェート侵攻時には、第二次世界大戦以降最も成功したとされる電撃作戦の主役となった。しかし、戦果という点では、後に反攻体制に入った多国籍軍(特に前述のアメリカ陸軍)が上塗りを行い、イラク軍の機甲師団があっさりと撃破されるに及び、価値は無きに等しいものとなった。

日本
日本においては北海道に第7師団が編成されているが、これは事実上の機甲師団である。自衛隊における唯一の機動打撃部隊であり、北海道防衛の要と考えられていた。90式戦車を装備する3個戦車連隊、89式装甲戦闘車をふくむ1個普通科連隊(実質的な機械化歩兵連隊)を基幹とし、特科・高射特科もふくめて、全部隊が機械化されている。

2009年04月11日

クラシック音楽

クラシック音楽(クラシックおんがく)とは直訳では古典(classic)である音楽のことであるが、一般には西洋の芸術音楽を指して言う。「クラシック音楽」の対語としてしばしば「ポピュラー音楽」が使われる。

クラシック音楽と言う時、暗黙の前提として西洋の伝統的な宗教音楽や宮廷音楽の系譜に連なる芸術音楽を指す。アラブやインド、中国など非西洋の古典音楽や純民衆的な伝統音楽は、民族音楽とされる。

西洋伝統音楽における狭義のクラシック音楽は、ハイドン、モーツァルト、ベートーベンに代表される古典派の音楽のことである。彼らの時代(あるいはその直前のバッハの時代)には、演奏面においてはヴァイオリン属楽器やピアノなどの音量が大きく取れる新しい楽器の発明や平均律理論の開発など今日につながる新しい動きが生まれているし、作曲技法の上でもソナタ形式などの新しい様式が取り入れられた。またこの時期には、それまで王侯貴族がおもな聴衆であったのに対し、一般市民という新しい聴衆が現れた時期でもある。それらの要素は少なくとも20世紀初頭までは西洋伝統音楽を特徴付ける要素でありつづけた。こういった意味合いにおいて、18世紀から20世紀にかけて作曲された一連のオーケストラ、オペラ、室内楽などの諸作品を西洋伝統音楽における広義のクラシック音楽としてカテゴライズすることには正統性があると考えられる。

ナーゼ リズム チェリ ゲバラ 津田かぶ ハニカム ロジック ニーネ フィギ メートル ドニヒリズム チェーサー はこべ ジレン ジェミニ 次郎柿 ブリク テクノロ きない ニップレス ケイン そらの木 ギリソウ カレッ ヤルタ ミムルス 希望の橋 イメクラダ ブック ナチス ラーメ 幸福 ローボール かっさい シュリン オステ けたあみ バシリ ノニオ スイレ かめだ 西条柿 テント 小指 サイトミニ ばれいし デジパー ドライ マグネット バロメ


2009年03月27日

アカデメイア派懐疑主義

ティモンからアイネシデモスまでの断絶期間中に懐疑主義に大きな貢献を果たしたのは、プラトンが創設したアカデメイアであった[26]。但し、プラトン自身が懐疑主義者だったわけではなく、その後の学頭アルケシラオス(前316/315年ー前241/240年)がストア派を反駁するために懐疑主義に方向転換したからである[27]。ピュロン主義の重要な用語である「判断留保」(エポケー)もアルケシラオスの考案ではないかと言われている[28]。初期のアカデメイア派懐疑主義の特徴は、対人論法という議論の形式にあった[29]。これは、プラトンの師ソクラテスが行っていたように、相手方の主張を仮定的に前提とした上で、そこからどのような結論が導き出されるかを探究する手法である。アルケシラオスおよび同じくアカデメイア派のカルネアデス(前214年頃ー紀元前129年)らが引き出した結論は、仮にストア派の前提が承認されるならば、彼らは不可知論に陥ってしまうということであった[30]。

アルケシラオスやカルネアデスの徹底した対人論法はその後廃れ、さらに後代の学頭ラリサのピロン(前159/58年頃ー前84/83年頃)の下で、アカデメイア派は、不可知論を正式な見解とした上で、信頼性の高い表象から真理へと漸次接近するという立場を取るようになった[31]。しかし、このような立場は結局のところ、現存しない理想的な知者を目標として漸次探究するというストア派の見解と異なる点がなく、アイネシデモスはついにアカデメイア派と決別してピュロン主義を再興することになった[32]。

古代の医学における懐疑主義 [編集]
古代の医術に関する立場の中には、経験主義と方法主義という考え方があり、セクストスによれば、どちらも懐疑主義と親和的であるが、前者は不可知論に陥らない限りにおいて親和的であり、後者の方がより親和的であると分析している[33]。もっとも、実際には、ピュロン主義者であり経験主義者であった医者は多くいたが、セクストスが言うようなピュロン主義と方法主義を両立させている人物は、史料上およそ知られていない[34]。ここで経験主義とは、医術の実践における経験と熟練を重視し、過去の医療記録を尊重する立場である[35]。これに対して、方法主義とは、医術全体の学習には六ヶ月もあれば十分であり、ヒッポクラテスの「人生は短く、医術は長い」を転倒させて「医術は短く、人生は長い」と考えていた人々のことである[36]。セクストス以前の著名な医者ガレノスも、『経験派の概要』などにおいてこれらの立場を詳しく論じている[37]。

アカデメイア派懐疑主義とキリスト教の真理論 [編集]
この節は執筆中です。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
既に古代ギリシャにおいて学問的によく練られていた懐疑主義は、実際にはかなり通俗化した形でしか広まらなかった[38]。とりわけピュロン主義は、主要な著作がギリシャ語で書かれていたということがこれに拍車をかけ、1562年にセクストスの『ピュロン主義哲学の概要』がラテン語訳されるまでは、学問的に忘れ去られてしまう。これに対して、アカデメイア派懐疑主義は、キケロがその支持者として『アカデミア派』全4巻を著したことにより[39]、批判の対象になりながらもキリスト教哲学に影響を及ぼすことになった。事実、アウグスティヌスは、一時期キケロの『アカデメイア派』に親しみ、懐疑主義の立場を取っていたことが今日では定説となっている[40]。アウグスティヌスはキリスト教に改宗した後で、『アカデミア派反駁』という書物を著したが、そこで彼はアカデメイア派懐疑主義を次のように評価している。

あらん限りの力をふりしぼって真理を探究するというわたしたちの仕事は些細で不必要なことではなく、むしろきわめて必要な、しかも最も重要なことであるとわたしは思う。この点については、わたしとアリピウス〔引用者註:アカデミア派懐疑主義の擁護者〕とは意見が一致している。というのは、すべての哲学者たちもまた、各自の考える知者が真理を見出したと思っているし、また、アカデミア派の人々も、知者は真理の発見に大いに力を尽くすべきであり、また実際に知者は注意深くそうしていると認めているからだ。だが、真理は覆われ秘められているか、あるいは、錯綜していて明かとはなっていないのだから、実生活上は蓋然的なもの、または似真的なものとして現れてくることに従うのだと、彼らは言っている。

? アウグスティヌス『アカデミア派反駁』3巻1章, 清水正照訳『アウグスティヌス著作集』第1巻、教文館、1979年、p.87-88.

初期アウグスティヌスの真理論は、矛盾律や排中律から出発する[41]。

もし世界に四つの元素しかないならば、五つの元素はない。もし一つの太陽しかないならば二つの太陽はない。同じ魂が同時に死に、かつ不死であることは不可能である。

? 『アカデミア派論駁』第3巻13章29, K. リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』平凡社、2000年、p.206.

しかし、このような真理論は、現実がどうなっているのかについて知識をもたらすものではない[42]。ここからアウグスティヌスは、より根源的な問いへ、すなわち自己認識の確実性へと思い至る[43]。

自分が生き、想起し、知解し、意志し、思惟し、知り、判断することを誰が疑おうか。たとい、疑っても生きており、疑うなら、なぜ疑うのかを記憶しており、疑うなら、自分が疑っていることを知解し、疑うなら、彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら、思惟しており、疑うなら、自分が知らないということを知っている。疑うなら、彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。

? アウグスティヌス『三位一体論』第10巻10章, K. リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』平凡社、2000年、p.208.

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2009年03月11日

ショチカルコ

ショチカルコ(Xochicalco)は、メキシコ・シティの南西約70km、 モレーロス州の州都 クエルナバカ市の南西約25kmに位置する古典期終末期から後古典期初頭(700年頃?1000年頃)に築かれた要塞都市[1]遺跡。海抜1500m前後の三つに連なった丘の上に立地する。

ショチカルコの名前の由来はナワトル語で「花の家のある場所」を意味し、花を表すXochi(tl)と家を表すcal(i)と場所にあることを意味する接尾辞である-coでできた語であるが、最近の研究でショチカルコが繁栄した当時は、「鳥が捕らわれた場所」[2]というような意味の名前であると考えられ、同じ文字は同時期のカカシュトラでもみられ商人を表す文字を描く一方で他の土地の名前を描く基壇[3]があって、ショチカルコとカカシュトラの両者に商取引のような関係があったことを示している。

ショチカルコには、先古典期の終末すなわち紀元前200年ごろからの居住が見られるが、本格的な発展期を迎えたのはテオティワカンの滅亡後で、650年頃から急速に発展し、メキシコ中央高原で最も影響力を持つセンターに成長した。

ショチカルコが建設された場所の中央を占めるのは、セロ・ショチカルコとして知られる山であってその山頂には公共建造物があり、その周囲にはテラスと一般住民の居住区が広がっている。地形をたくみに利用して比高差130mの丘陵を中腹から幾重にも階段状に整地して、そのテラスの側面に噴き石を行い、塁壁が入れ子状に連なって壁や空堀として効果的な防御としている。そういったテラスの段差は3mから高いところで5mに達する場所もある。
天の浮橋 ワインレッド ルバーブ 優しい響き マナー スピネル うむら タルブロク ドライブ ドマリエ スペツナズ シルク ダンネージ タイフーン かきょう ストリ 薪の音 次世代 スコア ロッジ まいこ ギャンブ リプリン リマーク しまやま フィト マリッジ ラニン オダマキ ジンバク ステップ フリー ストック ムッシュー かまど シンボリ トルクア ブルネイ メクチュ ライト ノッブ ソンブ 道のつづき ミノス マキシム データ ラチア ビンゴ シャド マキザサ

セロ・ショチカルコとその周辺の丘陵がこの時期の主要なセンターが発展する場所の一つとして選ばれたのは、丘の周りに予想される外部からの攻撃を防ぐために堀や溝や城壁を築くのに都合のよい自然の要害であったことに起因していると考えられる。細心の設計のもとに城壁を築いて土を動かしたり積み重ねたりなどの造成を行い、「城壁」部分は石灰層で被われさまざまな多彩色のモチーフが描かれた。ショチカルコの城壁は丘全体に巡らされショチカルコ自体を遠方から観察した場合に一つの巨大なピラミッドのようにみせている。

ショチカルコの中核部へつながる通路はごくわずかであり守るのに適した構造になっていた。ショチカルコの本体のある丘の頂上は漆喰で塗り堅められた中央広場があり主神殿である「羽毛の蛇(すなわちケツァルコアトル)の神殿」をはじめ多くの神殿、蒸気風呂や三つの球戯場、円形の祭壇や独立して建てられた石碑[4]がある。ショチカルコには、膨大な量の石彫があり、古典期終末期の社会的政治的宗教的な構造について推測する良好な資料となっている。とくに文字が刻まれた石碑は、マヤのように王の姿や名前と歴史が刻まれていると考えられている。象形文字はサポテカやマヤにもみられるような点と棒を用いた数表記、トルテカやミシュテカ、後にはアステカで使われるようになる動物や独特な表現で象形的に事物を表した日付けの文字などが刻まれている。

ショチカルコの編年はエドワルド・ノゲーラ(Nogera,E.)、ケネス・ハース(Hirth,K)、アン・サイファース(A.Cyphers)によって行われた調査で先古典期から後古典期にわたる居住によって推定されるが、最近の調査、すなわち1984?86年及び1991?94年にショチカルコ丘陵で行われた調査でショチカルコの居住は放射性炭素年代測定により古典期の終末に属することがあきらかになった。

2009年02月23日

シナ・チベット語族

シナ・チベット語族(シナ・チベットごぞく)は、言語の言語学上の分類単位の一種で、主に中国、東南アジアなどアジアの民族によって話される250余の諸言語のことである。多くが声調言語、孤立語であるが、これは言語系統上と言うより地域特性であるとも言われている。 代表的な言語として、中国語、ビルマ語がある。支那・蔵語族、漢蔵語系ともいう。なお、これら言語学に用いられる「シナ」はラテン語の Sina の音訳であり、近現代の「支那」に見られる差別的意味はないとされているが、「シナ」の代わりに「漢」を用いることもある。
ボライズ ピーマン ストー トラ!トラ! ルワン クッツ フーリガン チレース ディーピー マルガリ カツレツ ストアブ オルゴ れいほく ステップ びゃくぐん 横野柿 ストア テーマ サルバド アクティブ ピンぼけ マドラー スコップ スメグマ ドティー スローフ レンチ フェン スロー ミリオン ブカレスト ロボトミ セラム 平和の種 ベルト ヤプー もらーど デンマーク サーンチー ピアノ はちろ パラソル スキップ ランダム モンブ ぶなしめじ セニョーラ ボンボン イアル

シナ・チベット語族とされる言語グループの系統は、諸説あるが、下記の通り列挙する。

シナ語派 (Sinitic)
中国語諸語 -北方語、呉語、粤語、閩語、客家語、贛語、湘語など
チベット・ビルマ語派 (Tibeto-Burman)
ヒマラヤ語群 (Himalayish)
チベット語 (Tibetan) - 中国チベット自治区および青海省周辺のチベット民族の言語。独自の表音文字チベット文字をもつ。
レプチャ語 (Lepcha) - ロン語とも言う。シッキムにて使用されている。
ネワール語 (Nepal Bhasa) - ネパールタライ平原周辺のネワール族の言語など
カマルパ語群 (Kamarupan)
チン語 (Chin) - ミャンマー西部チン州周辺のチン族の言語
ナガ語 (Naga) - インド北西部からミャンマー国境のナガ族の言語
アボル語 (Abor) - インド・アッサム地方周辺のアボル族の言語
ミリ語 (Miri) - インド・アッサム地方周辺のミリ族の言語
ダフラ語 (Dafla)
ボド語 (Bodo) - インド・アッサム地方周辺のボド族の言語
ガロ語 (Garo) - インド・バングラデシュ国境周辺のガロ族の言語
チャン語 (Qiangic) - 羌語(中国四川省周辺のチベット系羌族=タングート族の言葉)
チンプオ・カチン語群 (Jingpho-Nungish-Luish)
カチン語 (Kachinic) - ミャンマー山岳部カチン州周辺のカチン族の言語、またはチンプオ語(中国雲南省周辺のチンプオ族=景頗族の言語)
ヌン語 (Nungish) - ベトナム北部高原地帯周辺のヌン族の言語
ルイ語 (Luish) - タイ山岳地帯のルイ族の言語
ビルマ・ロロ・ナシ語群 (Lolo-Burmese-Naxi)
ビルマ語 (Burmese)
ロロ諸語 (Lolo) - 中国雲南省周辺のイー族(彝族)の彝語、ラフ語、リス語、アカ語など。ロロ文字という表音文字がある
ナシ語 (Naxi) - 中国雲南省周辺のナシ族の言語。トンパ文字という象形文字がある。
カレン語 (Karenic) - ミャンマー・タイ国境周辺のカレン族の言語
ペー語 (Baic) - 中国雲南省大理周辺のペー族(白族)の言語(ロロ諸語に入れる説、シナ語派に入れる説もある)

2009年02月07日

三条西実隆

三条西 実隆(さんじょうにし さねたか、康正元年4月25日(1455年5月11日) - 天文6年10月3日(1537年11月5日))は、室町時代の公家。官位は正二位内大臣。父は内大臣三条西公保で次男、母は左大臣甘露寺房長の娘。妻は勧修寺教秀の娘。公世、公延。号は逍遙院。
王様 ケルピ つまごい まさめ ドンタ ラドン スラグ リリース れんがいろ イグアナ ジーユー プロデュポ 寛仁 日野菜 かやべ 睡蓮 リサーチ 鳥のくちばし ながぬま ロット シンビ ロゼ オフデイ トラン ナノチュ シエスタ サンリ ハイル ドルメン シンデレラ せーじ フットギア アムス チャル 雪うさぎ ファム あんず ディレッ ランプ マチュピ とうゆう 竜馬の如く イカオ 春夏秋冬 モンスーン ムイズ しゅくや ユニテリ リードオ パーセク

京都武者小路の邸で生まれる。長禄2年(1458年)に兄の三条西実連が死去し、寛正元年(1460年)には父の公保が死去する。このため、母方の叔父である甘露寺親長の後見を受けて家督を相続する。応仁元年1467年には京都で応仁の乱が発生し、鞍馬寺へ疎開、乱により三条西邸も焼失している。文明元年(1469年)に元服。永正3年(1506年)に内大臣となる。永正13年(1516年)に出家。後花園天皇、後土御門天皇、後柏原天皇、後奈良天皇に仕え、室町幕府8代将軍の足利義政や、11代足利義澄らとも親交があった。

一条兼良らとともに和歌などの貴族文化を保持、発展させ、宗祇から古今伝授を受ける。武野紹鴎に茶道を教え、周防の大内義隆とも親交があった。

漢文日記『実隆公記』は、史料的価値もある。歌集に『雪玉集』『聞雪集』、著作に『詠歌大概抄』『高野山参詣記』など。浄土宗を信仰していた。

墓所は京都市の二尊院境内にあり、ほかの三条西家の人たちの墓と並んでいる。

烏丸 資任(からすま すけとう、応永24年(1417年) - 文明14年12月15日(1483年1月23日))は室町時代の公家。室町幕府8代将軍足利義政の寵臣。烏丸豊光の子。号は蓮光院。子に烏丸益光、養子に烏丸冬光がいる。

文安元年(1444年)に参議、長禄2年(1458年)には従一位・准大臣に任じられた。応仁元年(1467年)に出家し、西誉と号する。文明14年(1482年)に66歳で死去。

今参局(御今)や有馬持家とともに一時幕政に重きをなし、「三魔」(おいま、からすま、ありまと、「ま」がつく三人)と称された。

一条教房(いちじょう のりふさ 応永30年(1423年) - 文明12年10月5日(1480年11月6日))は、室町時代後期の公卿(関白)、荘園領主。一条兼良の長子。母は中御門宣俊の女(小林寺殿)。一条政房、房家の父。

永享10年(1437年)元服。長禄元年(1457年)左大臣。長禄2年(1458年)関白となる。寛正4年(1463年)に関白を辞す。応仁の乱が勃発した際、弟の興福寺大乗院門主尋尊を頼って奈良に避難する。さらに父兼良が奈良に避難してきたので、父に奈良の避難所を譲り、一条家領のあった土佐国幡多荘に下向する。土佐国人に迎えられて生活の基盤を確保し、父の下向を誘ってみたり、兼良が帰京した後、土佐から邸宅を作るための木材を送ったりしている。文明12年(1480年)10月5日薨去。享年58。号は妙華寺殿、法名宗恵。

一条 兼良(いちじょう かねよし、応永9年5月7日(1402年6月7日) - 文明13年4月2日(1481年4月30日))は、室町時代の公卿・摂政関白で古典学者である。一般には「かねら」と読まれることが多い。父は関白一条経嗣(二条良基の子)。母は東坊城秀長女。桃華叟、三関老人、後成恩寺などと称した。子に教房、冬良、尋尊。

関白・一条経嗣の6男として誕生。病弱であった兄の権大納言経輔隠居の後を受け応永19年(1412年)元服家督。翌年公家に列し、その後正長2年(1429年)に極官の左大臣となったが、実権は親族の二条持基に握られていた。永享4年(1432年)には摂政となったが、月余で辞退。不遇をかこった。しかし、学者としての名は高まり、将軍家の歌道などに参与した。享徳4年(1455年)頃、『日本書紀纂疏』を著す。応仁元年(1467年)1月、関白に還補したが、同年9月に応仁の乱が勃発し、一条室町の邸宅と書庫「桃花坊文庫」が焼失した。応仁2年(1468年)8月に、奈良興福寺大乗院に子で門跡の尋尊を頼って身を寄せた。奈良でも講書、著作に力を入れ、源氏物語注釈書『花鳥余情』を完成させる。のち斎藤妙椿の招きで美濃におもむき、文明5年(1473年)には『ふぢ河の記』を執筆している。

文明9年(1477年)、応仁の乱が終息し、12月に帰京。9代将軍足利義尚や生母日野富子の庇護をうける。富子の前で『源氏物語』を講じ、『樵談治要』を義尚に贈り、政道の指南にあたると共に公武を問わず好学の人々に学問を教えた。兼良は、当時の人々からは、「日本無双の才人」と評され、兼良自身、「菅原道真以上の学者である」と豪語しただけあって、その学問の対象は幅広く、有職故実の研究から、和歌、連歌、能楽などにも詳しかった。また、古典では従来の研究を集大成し、宋学の影響を受け、一種の合理主義的な立場から、神仏儒教の三教一致を説いた。主要著作は70歳を過ぎてからのものであり、その後女児3人をもうけるという精力家であった。

文明13年(1481年)4月2日薨去。享年80。その死に対して、「五百年来この才学無し」とまで惜しまれた。墓は京都東山東福寺常楽院にある。


官職位階履歴
※日付=旧暦

1412年(応永19)、11月28日、元服。正五位下に叙位。禁色昇殿を許される。12月24日、右近衛少将に任官。
1413年(応永20)、1月5日、従四位上に昇叙し、右近衛少将如元。1月14日、左近衛中将に転任。4月16日、従三位に昇叙し、左近衛中将如元。
1414年(応永21)、1月5日、正三位に昇叙し、左近衛中将如元。3月16日、権中納言に転任。左近衛中将如元。
1415年(応永22)、1月6日、従二位に昇叙し、権中納言・左近衛中将如元。
1416年(応永23)、1月6日、正二位に昇叙し、権中納言・左近衛中将如元。11月4日、権大納言に転任。
1420年(応永27)、閏1月13日、右近衛大将を兼任。3月26日、左近衛大将を兼任し、右近衛大将を去る。
1421年(応永28)、7月5日、内大臣に転任。7月8日、左近衛大将如元。
1423年(応永30)、8月27日、左近衛大将を辞任。
1424年(応永31)、4月20日、右大臣に転任。
1425年(応永32)、1月5日、従一位に昇叙し、右大臣如元。
1429年 (正長2)、8月4日、左大臣に転任。
1432年 (永享4)、8月13日、摂政宣下。一座宣下。内覧宣下。藤原氏長者宣下。左大臣如元。8月28日、左大臣を辞任。10月27日、摂政・内覧を辞す。一座・藤原氏長者を去る。
1446年 (文安3)、1月29日、太政大臣宣下。一座宣下。
1447年 (文安4)、6月15日、関白宣下。内覧宣下。藤原氏長者宣下。太政大臣・一座如元。
1450年 (宝徳2)、4月28日、太政大臣を辞任。
1453年 (享徳2)、4月28日、関白・内覧を辞す。一座・藤原氏長者を去る。6月26日、准三宮宣下。
1468年 (応仁元)、5月10日、関白宣下。内覧宣下。一座宣下。藤原氏長者宣下。
1470年 (文明2)、7月19日、関白・内覧を辞す。一座・藤原氏長者を去る。
1473年 (文明5)、6月25日、出家。覺惠を号す。
1481年 (文明13)、4月2日、薨去。享年80

2009年01月22日

反分裂国家法

反分裂国家法(はんぶんれつこっかほう、中:反分裂国家法(Fǎn fēnliè guójiāfǎ))とは、台湾海峡両岸関係に関する中華人民共和国の法律。

一般に日本では反国家分裂法と知られており、英語では "Anti-secession law" と訳される。この英訳は、アメリカ合衆国に南北戦争のイメージを連想させるために用いられた。そのため、台湾政府(中華民国行政院大陸委員会)は"Anti-Separation Law"と訳している。

2005年3月14日、第10期全国人民代表大会第3回大会で採択され、採択後、直ちに施行された
法律は10条よりなる簡単な条文であるが、台湾が独立を宣言した場合、台湾独立派分子に対する「非平和的手段」を取ることを合法化しており、各方面で論議を呼んだ。

法律は「一つの中国」の原則を掲げ、三通(郵便、交通、通商の直通)を進めることにより中国と台湾の両岸関係の促進を唱い、第7条では台湾の平和的統一の段階を明示しているが、第8条でもし台湾独立分子が台湾を中国から分裂させる重大な事態になれば、非平和的手段を取ることもあると警告している。これは台湾の陳水扁政権が目指している台湾新憲法制定や国号改称など台湾独立色の強い政策をさすものと受け取られている。

影響
これに対し、台湾側は台湾は一度も中華人民共和国の一部であったことはなく、また、国家分裂法が台湾に対する武力行使を規定した事に反発を強めた。3月26日には反国家分裂法に反対して120万人が参加した3・26台湾護持大デモが台北市内で行われ、中華民国総統陳水扁、前総統李登輝や行政院長謝長廷らもデモに参加した。

翌2006年、台湾は反分裂国家法が四つのノー、一つのないの前提条件を消失されたことを理由に、国家統一綱領と国家統一委員会を終止させた。

同年に来日したリチャード・ギアが記者会見の場で突然、反国家分裂法に反対するメッセージを述べた
台湾関係法(たいわんかんけいほう、英Taiwan Relations Act)とは、アメリカ合衆国の法律。中華民国に関するアメリカ合衆国としての政策の基本が定められている。事実上の米台軍事同盟である。
1979年に民主党のジミー・カーター大統領は中華人民共和国(中国)との国交を樹立し、中華民国(台湾)との国交は断絶された。米国政府のこの方針は、ソビエト社会主義共和国連邦と中華人民共和国の離間を決定的なものとし、また将来中国大陸の市場を獲得するための布石であったともいわれている。

しかし、米国政府、議会とも、東シナ海の覇権を維持するために、その後も自由陣営の一員(当時の台湾国内が厳密な意味で自由体制であったかは別の問題)としての台湾を防衛する必要は感じており、また中華民国政府(民主党とほぼ唯一のパイプであった許國雄僑務委員会顧問)や在米台湾人(台湾独立派を含む)からの活発な働きかけもあって、台湾関係法が1979年に制定された。

一国内法でしかない同法に基づき、米国は幾度も空母機動部隊を台湾近海へ派遣し、中華人民共和国の台湾への武力侵攻(北京政府側から言えば「台湾解放」)を牽制している。

内容
クシェット ショベル フットプ スターリン ツリー 一期 ワッフル シリコー フォル ミッド オパール パスカル ニシダ バシネット ネトル いなば ハント トルネード ローダー スパラキ おどろき プログム リベット グアヤ ケープ うわばみ 水鏡 いろは坂 ストア サイヒト マチア トレッカー タマシダ ぼちゃ 温順山椒 グロナス レディ オーバート SEOタイ ビュー ディス オフセン かゆばら ダビンチ ディマー カイアポ かもい ギタリ るすつ トケドー

外交関係
台湾当局(つまり中華民国政府)とアメリカ合衆国は準外交関係を存続していくことを認めている。
台湾を国家として承認せず、外交関係は存在しないとするが、それによってアメリカ合衆国内の法体系へ影響を与えずこれまで通りとする。
1979年以前の中華民国との協定の維持を認める。
台湾を諸外国の国または政府と同様に扱う。
在米台湾協会に対して免税措置を与える。

防衛関係
アメリカ合衆国の中華人民共和国との国交樹立は、台湾の将来が平和的に決定されることを期待して行われたものである。
平和構築のため、台湾に兵器の提供を行う。
アメリカ合衆国は台湾市民の安全、社会や経済の制度を脅かすいかなる武力行使または他の強制的な方式にも対抗しうる防衛力を維持し、適切な行動を取らなければならない。

その他
アメリカ合衆国議会は本法の施行を監督する。

議論
アメリカ合衆国議会の保守強硬派の中で、中華人民共和国の反国家分裂法制定は条文の抵触に値すると主張されることも多いが、現在のアメリカの法解釈では「台湾海域で武力衝突が生じた場合、必ずしもアメリカがこれに介入しなくてもよい」とされている。これは冷戦終結後、ロシアとは異なり飛躍的な経済発展を遂げて国力を大幅に押し上げた中華人民共和国が、アメリカ合衆国に次ぐ軍事大国となりつつあることに、両国の衝突は可能な限り回避するべきというニュアンスが支配的となったためである。

アメリカ合衆国が有事回避の動きをとるために、一つの中国の堅持を支持し、台湾独立の動きを牽制していることは、事実上中華人民共和国の思惑通りにアメリカ合衆国が動かされていると主張する議会関係者も少なくない。

2009年01月15日

生化学(せいかがく、biochemistry)

レザー ホオズキ テレサイ スアレ 元亀 スリーブ アンス ファイフ テストパ 宇宙戦艦 ダーク アレン インロ デグー 赤いランプ 索ゴブレット トフル 男泣き ブロー キウイ ナーヤ ヒオウギ りょう カーブ ラワン ステッチ クイン きょっこう ブラッ きくもん まきえ 影の館 シリマリ クアッド 戦国合戦 ジャン サムネ ワーク シャイツ サイバ セルドレ ビュッフ 木漏れ日 シアター タムウ アココ オーニ ケンブ トークシ アネク

生化学(せいかがく、biochemistry)は生命現象を化学的に研究する生物学または化学の一分野である。生物化学〈せいぶつかがく、biological chemistry〉とも言う。

物質的観点で生命現象をとらえるならば、生体は多種多様な有機化学物質の集合体であるばかりでなく、それらの化学物質は相互に連携し、調和がとれた物質の独立した再生生産システムを形成している。すなわち、生体物質の変化〈代謝〉を司る主体も生体物質であるばかりではなく、それら主体となる物質の構造情報〈遺伝物質〉や製造プロセス〈たんぱく質合成系〉も生体物質で構成されている。あるいは物理化学的な平衡では自然には生じないような生体物質を生産する為の多段階の反応経路〈代謝経路〉とその原動力となる化学ポテンシャルを生産する仕組み〈エネルギー代謝〉や遺伝物質を複製することで自己増殖してゆく仕組みなど、緻密で繊細な化学物質システムが構築されている。

したがって広義の生化学は、生物学の一サブジャンルというよりも、生命現象を化学的側面から研究する一つの切り口と捉えられる。あらゆる生体分子と生物、その環境が対象となりうる。現在の生物学で生化学的と言うときは、生体から目的の分子を取り出して試験管内 (in vitro) で実験を行うこと指すことが多い。生体内 (in vivo) で行う場合は生理学的という。

生物物理学、細胞生物学、分子生物学、などとも関連は深く、また応用化学としては生理学、生物工学、薬学、免疫学、遺伝学などとも連携して研究される為に、生化学とそれらの学問分野との境界は曖昧である。

生化学の研究対象は生体物質全般であるが、中でもタンパク質、核酸、糖質など生体由来の高分子は生化学システムを構成する主役であり、今日でも生化学研究の重要な研究対象の源泉である。また、生体膜の主成分である脂質は細胞および細胞内器官を形成するだけでなく生体物質間の情報伝達の役割も果たしており、生化学の研究対象としても重要である。

生化学の夜明けは、1833年、酵素の1つジアスターゼ(アミラーゼ)がアンセルム・ペイアン (Anselme Payen) によって発見されたことだろう。1828年にフリードリヒ・ヴェーラー (Friedrich Wöhler) が尿素の合成に関する論文を発表し、人工的に有機物が合成できることが示された。それまで有機物は生体内でのみ作ることができると考えられていた。20世紀中頃にクロマトグラフィーやX線回折、NMR、放射性同位体標識、電子顕微鏡、分子動力学シミュレーションなどが開発されると、生化学は急速に発展する。これらの技術は多くの分子や代謝経路の発見と解析を可能にした。

今日、生化学の知見は遺伝学から分子生物学、農業から医学まで多くの分野で用いられている。最初の生化学の応用は、おおよそ5000年前、パンを膨らませるために酵母を用いたことにさかのぼるだろう。

研究対象
生化学が研究対象とする生化学プロセスは大きく二つに分けるならば、物質代謝と遺伝子発現である。前者は今日でも生化学の分野であるが、後者は1980年代以降急速な進展により分子生物学あるいは分子遺伝学といった一大学問領域を形成している。

生体内の物質代謝のほとんどには酵素の関与が見られる。逆に酵素が有する基質特異性により、代謝反応の各段階にはそれぞれ固有の酵素が関連しているので物質代謝を研究することは裏返して見るならば酵素を研究することでもある。酵素タンバク質の発現や化学物質を介した情報伝達システムによる酵素機能の調節は分子生物学でも研究される。

「セントラルドグマ」として知られる遺伝子発現機構は1950年代にワトソンとクリックが提唱したDNAモデルに起源を持つ、遺伝子発現機構の主体であるDNA、RNA、リボゾーム・タンパク質、リプレッサー・タンバク質の存在は早くから研究されているが、その機能や調節機構は複雑かつ精密であり、今日でも分子生物学やバイオインフォマティクスの重要な研究テーマである。

生化学実験
生化学実験はIn vitro実験とも呼ばれるように生体細胞の細胞器官内で生じる生化学反応を、複雑な代謝経路や調節機構から切り離してまさに試験管のなかで再現することで研究が進展してきた。21世紀に入ると標識化技術や測定技術の進歩で生きている細胞内で生化学反応を間接的に追跡することも可能になってきたが、生体組織から目的の成分を分離精製する実験技術は生化学研究においては重要な研究技術である。

一般に消化酵素やホルモンのように分泌型の生体物質でない限りは、酵素や受容体を含めて目的の生体物質は特定の組織細胞の特定の細胞小器官にのみ発現・存在している。したがって、生化学実験は標的組織を多数採集し、そこから目的の生体物質を分離精製するところから始まる。

DNAのように細胞破砕後に、エタノール沈澱するだけで捕集できるものもあるが多くの場合、細胞破砕後に密度勾配法による遠心分離で目的の細胞内器官を密度により選択し捕集する。この状態では多くの場合、酵素や受容体は細胞膜に取り込まれていたり、膜の二重層に埋め込まれているので、界面活性剤を使って脂質膜と分離〈可溶化〉する必要がある。

目的の生体高分子の精製は古くは半透膜による透析が行われたが、20世紀後半にはゲル濾過クロマトグラフィやアフィニティクロマトグラフィにより目的物を精製する。

代謝による生体内物質の移動や変化の追跡にはトレーサー物質が利用される。古くから放射性あるいは非放射性同位体を組み込んだ生体内物質が広く利用された。しかし同位体置換した生体内物質を用意することは困難をともない、放射性トレーサーの場合は専用実験施設が必要な為、今日では抗体染色やELISA法など同位体を使用しないトレーサーが広く利用されている。また、微量危機分析技術の進展によりMALDI法などの質量分析でクロマトグラフィ・スポット(ピーク)から直接、標的物質の同定も可能である。

イオンチャネルの研究においては、生体膜にガラスの毛細管を押し当てることで、管内にイオンチャネルを閉じ籠めて生化学実験を行うパッチクランプの実験技術によって上記のように生体成分を分離せずに実験を行う技法も開発された。

1990年代以降には特定の無機イオンに反応して蛍光を発する標識色素やルシフェラーゼ遺伝子を応用した形質導入によって、細胞外から蛍光顕微鏡で発光現象を追跡することで間接的に生化学反応をトレースすることも可能になってきている。

炭素や水によらない生化学

宇宙生物学の見地から、現在知られているタンパク質や脂質、糖質、核酸などの有機化学に基づくシステム以外の生化学によるシステムの理論や仮説がごく一部で研究されている。しかし、2007年現時点では、炭素を基盤としない生命は発見されていない。

2009年01月08日

アルキメデス

アルキメデス(Archimedes、紀元前287年 シチリア - 紀元前212年)は古代ギリシアの数学者、技術者である。

シチリア島のシラクサに住んでいたため、とくにシラクサのアルキメデスとも言う。一時、アレクサンドリアで数学を学んだ。第二次ポエニ戦争でシラクサがハンニバル側に味方したため、ローマ軍に包囲されたときには数々の発明品(凹面鏡を作ってローマの軍船を焼いたとも伝えられるが真偽の程は定かではない)でローマを苦しめたという。シラクサ陥落の際、ローマ側の将軍マルクス・クラウディウス・マルケッルスは「決してアルキメデスを殺すな」と命令を下していたが、地面に図形を描いていたアルキメデスはそれを踏みつけた兵士に反抗し、結果その一兵士の手によって殺害された(アルキメデスの最期の言葉は、「私の図形をこわさないでくれ(私の円を踏むな)」だったと伝えられる)。その兵士は命令違反によって処刑されている。その後、その報告を聞いたマルケッルスによって墓が作られたという。

アルキメデスは、生前、球とそれに外接する円柱は、「体積の比と表面積の比が等しく 2:3 であること」の発見が自分の最高の発見であると言っていた。そして、墓石には、球とそれに外接する円柱の図が刻まれることを願っており、この願いはかなえられた。その後、紀元前75年に政治家マルクス・トゥリウス・キケロによってシラクサの入り口近くでいばらと雑草に覆われたアルキメデスの墓が発見された。その後、墓は行方不明となった。

球の表面積と体積、放物線の弦と弧とに挟まれる面積、円周率などを計算によって初めて求めた。円周率は、円に内接する正 96 角形と外接する正 96 角形のそれぞれの辺の長さを計算することにより 223/71 < π < 22/7 であることを求めた。これは小数で表せば、3.14085… < π < 3.14286… である。

ねじを発明したとも言われる。少なくとも揚水用の水ねじ(アルキメディアン・スクリュー)は彼がアレキサンドリアに留学していた際の発明で、きわめて効率的に揚水を行うことができた。水ねじはねじ構造を人類が初めて活用した例と言われ、東洋では独自にねじを発見・発明することはできなかった。

アルキメデスの原理を発見した。

ヘロン王が金細工師に金を渡し、純金の王冠を作らせた。ところが、金細工師は金に混ぜ物をし、王から預かった金の一部を盗んだ、といううわさが広まった。そこで王はアルキメデスに、王冠を壊さずに混ぜ物がしてあるかどうか調べるように命じた。アルキメデスは困り果てたが、ある日、風呂に入ったところ、水が湯船からあふれるのを見て、その瞬間、アルキメデスの原理を発見したと言われる。このとき浴場から飛び出たアルキメデスは「ヘウレーカ(ΕΥΡΗΚΑ)、ヘウレーカ」(分かったぞ)と叫びながら裸で走っていったという伝説も残っている(ちなみに、古代ギリシャでは男性は裸で運動するのが普通で、男の裸は珍しいものではなかった)。アルキメデスは金細工師に渡したのと同じ重量の金塊を用意し、金塊と王冠のそれぞれを、ぎりぎりまで水を張った容器に入れた。すると、王冠を入れると、金塊を入れたときよりも多くの水があふれ、金細工師の不正が明らかになった。金細工師の名は知られていないが、その後死刑になったと伝えられる。

「私に支点を与えよ。そうすれば地球を動かしてみせよう」と豪語したと伝えられる(てこの原理を端的に言い表したもの)。

フィールズ・メダルには、表面に彼の横顔が、裏面にアルキメデスの球がそれぞれ描かれている。

チング ハムナ タッセル オセア おおやまと クーポ シカゴ バリケード フィロ スプリン スモーカー プロバ サーチドア シュメール スティバル あっぱれ シャコ マリッジ 回転計 モノレール トップア ラテン ブレキ ティブ ピナフ システ そうよう モビール ラテアー チャレン センター フライド ビアフラ フットウ ガニメデ ブルー 大根ダイ トフロント びえい ネック ひみつの扉 ジーパン ジェリ ゼソウ コスモス しだれ梅 ひのみ レッジ スリラ トラウ


2009年01月03日

局部銀河群(きょくぶぎんがぐん、the Local Group)

局部銀河群(きょくぶぎんがぐん、the Local Group)は、地球の所属する銀河系(天の川銀河:Milky Way Galaxy)が所属する銀河群である。

局部銀河群には銀河系を含め、大小およそ40以上の銀河の所属が確認されている。

局部銀河群の内部で、銀河系(天の川銀河)から最も近い銀河はおおいぬ座矮小銀河である。最も遠いのはGR8銀河で、距離はおよそ800万光年である。最も大きい銀河はアンドロメダ銀河で、その重力にひかれて多くの銀河がアンドロメダ銀河周辺に存在する。

局部銀河群にもっとも近い銀河群はちょうこくしつ座銀河群で、1000万光年ほど離れている。その他、近隣にはおおぐま座のM81銀河群、M101銀河群、りょうけん座のM51銀河群などがある。5000万から7000光年ほど離れたところにおとめ座銀河団があり、これらすべてがおとめ座超銀河団に含まれる。

1990年代中ごろまで、局部銀河群はおとめ座銀河団に取り込まれつつあるという説が有力であった。しかし、1990年代後半、宇宙の膨張速度が加速的に増加している事が確認され、この斥力に関しての研究が始まっている。この現象を加味すると、前述の銀河系を含む局所銀河群がおとめ座銀河団に取り込まれるという予想は、覆ってしまう可能性がある。

この説では、実際に銀河団同士が引き合う引力は、まだ総量が確定されていないダークマターの質量を含めても宇宙の膨張による離間速度差を埋めるまで至らず、宇宙の膨張に準じて、それぞれの銀河団と銀河団の空間が大きくなり、最終的には重力と斥力のバランスが落ち着く程度の総量を含む銀河団が、個々に安定的な系を成す事が予想される。その際、安定した個々の銀河団は光速の壁に阻まれ、一つの安定した銀河団単位に孤立した宇宙(空間)として切り離されるものと予測されている[1]。

遠い将来の宇宙の姿について、実際の銀河団による小さな宇宙になるのか、それとも、ビッククランチを起こすのか、あるいは永遠の膨張を続けるような宇宙になるのかという結論は、今後、大統一理論 (TOE) の登場とその理論による解析を待たなくてはならないと考えられている。


所属銀河の一覧
まだ無数の未発見の矮小銀河が存在し(Daniel Zuckerによるとその数は1万に達する)、今も頻繁に新しく発見されている。そのため、このリストは増えつつあり、発見済みの全てである保証もない。

渦巻銀河
銀河系 (天の川銀河) (Milky Way)
アンドロメダ銀河 (M31, NGC 224)
さんかく座銀河 (M33, NGC 598)

銀河系の伴銀河
大マゼラン雲 (Large Magellanic Cloud, LMC)
小マゼラン雲 (Small Magellanic Cloud, SMC, NGC 292)
いて座矮小楕円銀河 (Sagittarius Dwarf Elliptical Galaxy, SagDEG)
ウィルマン1 (Willman 1) 球状星団?
うしかい座矮小銀河 (Boötes Dwarf)
おおいぬ座矮小銀河 (Canis Major Dwarf)
おおぐま座I (Ursa Major I)
おおぐま座II (Ursa Major II)
おとめ座ステラーストリーム (Virgo Stellar Stream) ステラーストリーム?
かみのけ座矮小銀河 (Coma Berenices Dwarf)
こぐま座矮小銀河 (Ursa Minor Dwarf)
しし座I (Leo I, DDO 74)
しし座II (Leo II, Leo B)
しし座IV (Leo IV)
しし座V (Leo V)
しし座T (Leo T) 銀河系の伴銀河かどうか不確実
ちょうこくしつ座矮小銀河 (Sculptor Dwarf, E351-G30)
ヘルクレス座矮小銀河 (Hercules Dwarf)
りゅう座矮小銀河 (Draco Dwarf, DDO 208)
りゅうこつ座矮小銀河 (Carina Dwarf, E206-G220)
りょうけん座I (Canes Venatici I)
りょうけん座II (Canes Venatici II)
ろ座矮小銀河 (Fornax Dwarf, E356-G04)
ろくぶんぎ座矮小銀河 (Sextans Dwarf)

アンドロメダ銀河の伴銀河
M32 (NGC 221)
M110 (NGC 205)
NGC 147
NGC 185
アンドロメダ座I (Andromeda I)
アンドロメダ座II (Andromeda II)
アンドロメダ座III (Andromeda III)
アンドロメダ座IV (Andromeda IV)
アンドロメダ座V (Andromeda V)
アンドロメダ座VI (Andromeda VI, Pegasus Dwarf Spheroidal Galaxy)
アンドロメダ座VII (Andromeda VII, Cassiopeia Dwarf)
アンドロメダ座VIII (Andromeda VIII)
アンドロメダ座IX (Andromeda IX)
アンドロメダ座X (Andromeda X)
ペガスス座矮小不規則銀河 (Pegasus Dwarf Irregular Galaxy, PegDIG, DDO 216)

その他
NGC 3109
NGC 6822 (Barnard's Galaxy)
IC 10
IC 1613
いて座矮小不規則銀河 (Sagittarius Dwarf Irregular Galaxy, SagDIG)
うお座矮小銀河 (Pisces Dwarf, LGS3)
ウォルフ・ランドマーク・メロット (Wolf-Lundmark-Melotte, WLM, DDO 221)
きょしちょう座矮小銀河 (Tucana Dwarf)
くじら座矮小銀河 (Cetus Dwarf)
しし座III (Leo III, Leo A)
ほうおう座矮小銀河 (Phoenix Dwarf)
ポンプ座矮小銀河 (Antlia Dwarf)
ろくぶんぎ座A (Sextans A, UGCA 205)
ろくぶんぎ座B (Sextans B, UGC 5373)

ナイフ ダイア レフト レター ブライ マル ドポト フットランプ テグス パーツ なんがい トーム かにた ナツメ スモン ピンクソーダ シソーラス ジッポ リキュール ジープニー インター レコー ブート スパン コマツナギ トップバ ジーンチ 炎神 オピエー かさだか うばゆり キャンセル モスキ メトロ フォーゼ クラウト キール ばんかん アンダ シンパ せいこ 鶏頭人気 スコッ パレード オーメン トイ人 テゴル ティコア コムタン ヤハウェ